茨城県土浦市「保立食堂」

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■『ほたて』と呼ばれ親しまれて

保立食堂-04

初代・保立伊助の苗字を屋号とした保立食堂。現在、その暖簾を守るのは保立成彦(しげひこ)さん。

「ウチは代々ずっと直系が継いでいるのですが、珍しい苗字ですよね。でも、茨城だと鹿島方面にこの苗字が多く、(鹿島市の隣の)神栖市長の苗字も保立。どうやらその流れのようなんです」

高校卒業後すぐ、食堂の厨房で修行を重ねて以来、同級生だった栄津子さんと共に六代目として受け継いでいます。

「兄弟が姉二人と弟一人だったので、自分が食堂を継ぐのかなぁ…と薄々は感じていました。その後、高校を卒業する頃に姉から『この食堂、どうするの?』と言われたのが大きなきっかけでしたね。本当は水泳をしていたので、スイミングクラブのコーチをしながら国体を狙おうとかも考えたんですが」

バタフライが得意だったという成彦さんの、すらっとがっしりした体型にその面影が伺えます。

保立食堂-04

かつて使われていたおかもちにも、『保立』の屋号が堂々と

■まるで本当の家族のように

保立食堂-05

大正11年、大日本帝国海軍で3番目に土浦の隣町・阿見町に設置されたのは、霞ヶ浦海軍航空隊。
これを機に「海軍の街」となった町には、昭和14年に予科練習生(予科練)の増員等の理由により神奈川県横須賀から海軍飛行予科練習部が移転。予科練習教育の最重要拠点となりました。

故郷を離れパイロットになるべく厳しい訓練を送る練習生が、疲れを癒やし一人の少年に戻ることができるのは日曜日のみ。週に一度の休日、たっぷりのごはんと料理が入った弁当箱を抱えて向かった先は、『指定クラブ』と呼ばれた大きな畳の部屋を持つ農家、そして『指定食堂』でした。

「当時、海軍は大きな畳の座敷を有し、衛生環境等が整った店を『指定食堂』と定めていました。土浦では7軒が指定されていて、ウチもその一つだったんです」

海軍の中で、予科練の食事環境は比較的恵まれていましたが、俊一さんが腕を奮って作る料理の味は別格。特に人気だったのが天丼や親子丼、玉子丼といった丼ものですが、俊一さんが特に気持ちを込めていたのがうな丼でした。

「俊一は予科練生のために贅沢品だった『うな丼』を食べて元気になってもらおうと、小さなうなぎをかき集めて作っていたんです」

当時、家族との面会が許されていたのは、指定食堂のように限られた場所だけ。かけがえのない家族が持参した食事と合わせて、食堂の料理やお弁当で満腹になった後は座敷でくつろぐ。普段はハンモックで眠っていた予科練生にとって、その数時間だけは家にいるかのように、安らぎのひとときを過ごしていました。

「家族と面会する時は朝一番から門限まで、ウチの二階で会っていました。うちで作る丼ものを食べた後、家族がお重に詰めて持参したごはんやお弁当を食べていたそうです。その後は畳の上で一日中ゴロゴロしていたそうです」

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現在、二階は生活の場となっていますが、一階には畳の座敷が

そんな四代目、実は視力が悪く兵役につくことができず、航空省でモールス信号の送受信をしていました。

「食堂との仕事を兼ねていたのですが、『オレが阿見にいなかったとき、机の上にバクダンが落ちたんだ…』と話していました」

後に五代目となる剛さんを、実の弟のようにかわいがっていたという予科練生。本当の家族のように接していた俊一さんが作るお店の味は、予科練生にとってはかけがえの存在だったはずです。


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