茨城県土浦市『保立食堂』の天丼と天ぷら定食、おさしみ定食、あら汁

2021年5月16日

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城下町、宿場町、そして水運の町。多彩な顔を持つ茨城県土浦市。

県の南東部から千葉県北東部に面する霞ヶ浦は、江戸との交通を担った高瀬舟や蒸気船の終着港として町の発展を支え、人や物資の往来が増えるに連れて、商家の生活は豊かになっていきました。

そんな町中の中心部、かつて街路に沿って流れていたのが川口川。フナ、コイ、タナゴに加えて、時にはワカサギの姿もあり、明治時代にはこれらの漁も盛んでした。また大正時代には川沿いにバラック小屋も建ち並び、水害対策による埋め立てが行われた昭和初期まで、水運の町・土浦を象徴する存在でした。

暗渠となった川の上に亀城通りが走る土浦の中心地。宿場町のメインストリート・中城通り(旧水戸街道)と交差する地点に、木造二階建てのお店が姿を現します。

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寄棟造の屋根、押縁下見板張り、漆喰の外壁、そして格子木囲い。当時の建築技術がそのまま残る「保立食堂」。

明治2年の創業当時、店の対岸には銚子などで獲れた魚が水揚げされた魚河岸があり、商環境に恵まれた食堂は、当時の土浦で最も繁盛した店の一つと言われました。

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お店のある交差点には、桜橋の欄干跡が今も残ります

お店のルーツは、江戸時代に現在の田町(現・土浦市城北町)に構えていた魚問屋。移転か暖簾分けで店を構えたのかは定かではありませんが、魚河岸の人を中心に、煮魚の定食を販売していたそうです。

■『ほたて』と呼ばれ親しまれて

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初代・保立伊助の苗字を屋号とした保立食堂。現在、その暖簾を守るのは保立成彦(しげひこ)さん。

「ウチは代々ずっと直系が継いでいるのですが、珍しい苗字ですよね。でも、茨城だと鹿島方面にこの苗字が多く、(鹿島市の隣の)神栖市長の苗字も保立。どうやらその流れのようなんです」

高校卒業後すぐ、食堂の厨房で修行を重ねて以来、同級生だった栄津子さんと共に六代目として受け継いでいます。

「兄弟が姉二人と弟一人だったので、自分が食堂を継ぐのかなぁ…と薄々は感じていました。その後、高校を卒業する頃に姉から『この食堂、どうするの?』と言われたのが大きなきっかけでしたね。本当は水泳をしていたので、スイミングクラブのコーチをしながら国体を狙おうとかも考えたんですが」

バタフライが得意だったという成彦さんの、すらっとがっしりした体型にその面影が伺えます。

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かつて使われていたおかもちにも『保立』の屋号が堂々と

■まるで本当の家族のように

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大正11年、大日本帝国海軍で3番目に土浦の隣町・阿見町に設置されたのは、霞ヶ浦海軍航空隊。
これを機に「海軍の街」となった町には、昭和14年に予科練習生(予科練)の増員等の理由により神奈川県横須賀から海軍飛行予科練習部が移転。予科練習教育の最重要拠点となりました。

故郷を離れパイロットになるべく厳しい訓練を送る練習生が、疲れを癒やし一人の少年に戻ることができるのは日曜日のみ。週に一度の休日、たっぷりのごはんと料理が入った弁当箱を抱えて向かった先は、『指定クラブ』と呼ばれた大きな畳の部屋を持つ農家、そして『指定食堂』でした。

「当時、海軍は大きな畳の座敷を有し、衛生環境等が整った店を『指定食堂』と定めていました。土浦では7軒が指定されていて、ウチもその一つだったんです」

海軍の中で、予科練の食事環境は比較的恵まれていましたが、俊一さんが腕を奮って作る料理の味は別格。特に人気だったのが天丼や親子丼、玉子丼といった丼ものですが、俊一さんが特に気持ちを込めていたのがうな丼でした。

「俊一は予科練生のために贅沢品だった『うな丼』を食べて元気になってもらおうと、小さなうなぎをかき集めて作っていたんです」

当時、家族との面会が許されていたのは、指定食堂のように限られた場所だけ。かけがえのない家族が持参した食事と合わせて、食堂の料理やお弁当で満腹になった後は座敷でくつろぐ。普段はハンモックで眠っていた予科練生にとって、その数時間だけは家にいるかのように、安らぎのひとときを過ごしていました。

「家族と面会する時は朝一番から門限まで、ウチの二階で会っていました。うちで作る丼ものを食べた後、家族がお重に詰めて持参したごはんやお弁当を食べていたそうです。その後は畳の上で一日中ゴロゴロしていたそうです」

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現在、二階は生活の場となっていますが、一階には畳の座敷が。

そんな四代目、実は視力が悪く兵役につくことができず、航空省でモールス信号の送受信をしていました。

「食堂との仕事を兼ねていたのですが、『オレが阿見にいなかったとき、机の上にバクダンが落ちたんだ…』と話していました」

後に五代目となる剛さんを、実の弟のようにかわいがっていたという予科練生。本当の家族のように接していた俊一さんが作るお店の味は、予科練生にとってはかけがえの存在だったはずです。

■江戸前の味が土浦の味になるまで

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「父は浅草で3年間天ぷらの修行をしていて、こっちに戻ってすぐに江戸前の天ぷら一本でやろうと決めたんです」

俊一さんから暖簾を継いだ五代目の剛さん。丼ものを提供していたこれまでのメニューを一新。自らが修行先で技術を学んだ天ぷらに暖簾の未来を託したのです。

「今でこそ天つゆで食べてもらってますが、最初の頃は天ぷらを天つゆと一緒に出すと「醤油をくれ」という方が多かったんです。土浦は自宅で天ぷらを食べる時に醤油を使う人が多く、家庭の味付けで食べたかったみたいですね」

江戸前の天ぷらが定着するまでには、少しだけ時間を要したものの、今ではすっかり店の代名詞。

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そんな天ぷらを、店頭の一角で売り出したのも五代目からでした。

「四代目までは正月に使うナルトとか、練り物を店頭で売っていたそうです。昔は夕方になると忙しくて、食堂よりもこの一角のほうが人気だったようです」

今は「おいしさを優先して、揚げ置きせずに注文を受けてから調理をしている」とのこと。本格的な江戸前の天ぷらがある食卓っていいですよね。

…ということで、お話を伺えばやっぱり揚げたてが食べたくなるもの。看板メニューの天丼と天ぷら定食、そして食堂のルーツたる魚屋のDNAが詰まったおさしみ定食を注文しました。

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大きなボウルで衣を溶く音が厨房に響き、大きな天ぷら鍋からはジュワ~っと食欲を掻き立てる音が。ゴマ油をベースにしたオリジナルの配合の揚げ油の香りと共に五感を刺激します。

その傍らには持ち帰り用コーナーのガラスケース。揚げたての天ぷらの油を切って年季の入った包装紙でお化粧。きっと、町でこれを見かけたらテンションが上がること間違いありません。

■タレが染み込むフワフワの天丼と、香ばしく軽やかな天ぷら定食

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いやぁ…もう。この色がたまりません。絶え間なく刺激するのは、衣の隅々まで行き渡ったタレの香り。

「ウチの天丼は揚げた天ぷらをタレにくぐらせているんです。タレの作り方自体は昔から変えてなく、今も継ぎ足して使っています」

大きなかき揚げの中には、みつば、小エビ、小柱がギッシリ。じゅわりと染みたタレの旨辛ならぬ旨甘な味はご飯との相性抜群。小エビや小柱が歯に当たるごとに笑顔がこぼれます。

その傍らには海老天が2本。こんなに贅沢でいいんでしょうか?と思いつつ、プリプリの食感を堪能すれば、もうごはんが止まりません。

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一方、天ぷら定食も大きな海老天を始め、バラエティに富んでいます。天つゆにくぐらせて頬張れば、歯ざわりサックリ軽やかな食感。「今はワカサギなどの淡水魚や、地物のれんこんもタネに使っています」ということで、ほろ苦さや瑞々しさといったタネの個性が、しっかり包まれています。

「天丼のタレもですが、昔に比べて全体的に軽めの仕上がりにしているんです」と、老舗だからこそ、時代に合わせたアップデートも欠かせません。

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そして、おさしみ定食。立派なマグロの刺身を一切れ口に運べば、舌に広がるのは赤身の切れ味ある酸味。魚屋がルーツであることを改めて感じさせてくれます。

ちなみに、天ぷらやお刺身は単品注文も可能。なので、自分だけのオリジナルで保立御膳を作るのも大いにありですよ!

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この3つの料理全てに添えられる『あら汁』。実はこれが明治2年の創業当時から受け継がれる最古参の一品。

骨皮というよりも、身がしっかり残ったあらと厚切りの豆腐。具だくさんの一杯が出て来ると、得したって感じになりますよね。でも、一口飲めば驚きに変わります。『こんなにも魚の旨味って味噌汁に染み出すの…!?』と。

「元々が魚屋ですから身は煮魚にして、あらは汁に使っていたんです。昔はマグロのあらを使っていましたが、今はカツオやサバですね。味噌は石岡の『ミツウロコ』を、お豆腐は地元の豆腐屋さんが、金属容器ごと持ってきてくれるウチのために特別に作ったものを使ってます」

隅々までギッシリと豆が詰まった木綿豆腐は、口の中で存在感のある弾力で歯を喜ばせ、大豆の美味しさと合わさった魚の出汁が舌をしっかり包みます。

極端に言えば、これと炊きたてのごはん、そして自家製のぬか漬けだけでも定食になっちゃうほど。そんなすごい一品です。

■土浦への愛を筆に込めて

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「俊一が亡くなった翌年に、永遠の0が上映されたんです。もし、それがもっと早かったら100歳まで生きたんじゃないかって(笑)」

土浦を愛した俊一さんは街の歴史に精通していて、なんと書籍を執筆したほど。「色々な方に街のことを話すのが好きだった」そうで、自分も聞いてみたかったです。

そして四代目は絵画や腕も達者。養護施設にボランティアで描き方を教えていたほどの腕前だったそう。さしずめ店内は小さな街の美術館。昔の土浦の姿を今に残すのは建物だけではありません。

そんな食堂が六代続いてきた秘訣を伺うと、

「なんとも言えないですね。ただ、この家に生まれてこの店を継ぐようになってたので、自然と『やらなければならない』と思ったんです」

揚げたての天ぷらの香りとあら汁の味、そして人と共に歩んできた歴史。土浦を象徴する食堂よ、どうかずっとこのままで。


創業年:明治2年(取材により確認)
住所:〒300-0043 茨城県土浦市中央1-2-13
電話番号:029-821-0151
営業時間:11:00~18:30/11:00〜14:00(水曜のみ)
定休日:第2・4水曜日
主なメニュー:天丼(870円)/天ぷら定食(880円)/おさしみ定食(870円)/あら汁(250円)
※店舗データは2017年9月5日時点のもの、料金には別途消費税が加算されます。

〒300-0043 茨城県土浦市中央1-2-13

プロフィール

百年食堂応援団/坂本貴秀
百年食堂応援団/坂本貴秀合同会社ソトヅケ代表社員/local-fooddesign代表
食にまつわるコンテンツ制作をはじめ、商品開発・リニューアル、マーケティング・ブランディング支援、ブランディングツール制作などを手掛ける。百年食堂ウェブサイトでは、全記事の取材先リサーチをはじめ、企画構成、インタビュー、執筆、撮影を担当。