群馬県高崎市「きのえね」

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■アメリカ映画が紡いだ暖簾の歴史

「末一郎が他界したのは、私の母のとし江が2歳の頃でした。女中さんと結婚した末一郎との間に、母の姉である美代さんが生まれ、後妻のみつの子供として生まれたのが、とし江です」

戦後の復興期、人気を博した蕎麦屋の箱入り娘として育ったとし江さん。特に好きだったのが映画鑑賞でした。

「子供の頃はフルーツポンチを食べたり映画を見たり。映画に出てきた洋服を見て素敵だなぁと思ったら、それに近いものを縫ってもらって、近所の写真館で撮影もしてもらいました。着物も持って日本舞踊も習っていたんです」

中でも「ビビアン・リーやエリザベス・テーラーが好きでした」とアメリカ映画に夢中だったとし江さん。当時、きのえねの隣にあった『銀星座』という映画館に頻繁に通っていました。そこで出会ったのが映写技師として勤めていた広治さん。

「広治は農家の5人兄弟の末っ子でしたが、『農業をやりたくない』ということで銀星座に勤めたんです。そこで広治に『自分の店が持てる』ということも含めて、婿にしようと企んだんです(笑)」

こうして昭和32年、蕎麦屋の婿になった広治さん。店での修行を経て本店から歩いて数分の距離にある旭町に支店を構えました。

「当時、旭町のある駅周辺には現在のようなデパートや大型商業施設がなく、店に食べに来るお客さんも少なかったので、近隣の郵便局や食糧事務所など官公庁施設への出前が主流でした」

何段にも積んだせいろを持って消防署や郵便局に行く機会が増えるに連れて、実直に作る蕎麦・うどんの味が少しずつ町に認知されつつあった一方で、連雀町の本店は定吉の後を継いだ息子さんの代で閉店。こうした事情もあって広治さん夫妻が三代目を名乗っています。

「特に大きかったのが高島屋の進出、お店に来るお客さんの層も一変しました」

店の近所に大型店が続々と建ち始めた昭和50年代、平日は大型店に勤めるサラリーマン、土日は買い物帰りの家族客が増加。出前の役割は終え、昭和時代のエピソードとして語られる存在になりました。

■上州女の強さ、ここにあり!

きのえね-06

「昔は男性のお客様が中心でしたが、今のお店になってからは女性のお客様が多いですね」

ランチタイムのピークを過ぎた時間帯、今も近所のサラリーマンや女性客は暖簾をくぐり、三代に渡って培われてきた味を注文します。

現在、四代目として暖簾を守る長女の恵子さん。群馬テレビのアナウンサーを経て地元で江戸時代から続く料亭に嫁ぎ若女将へと転身。約10年間、若女将と母との二つの顔を持つ日々を過ごしていましたが離婚。子供と共に実家へ戻り店を手伝うことに。

一方、妹の弘恵さんは、高校卒業後お店を手伝っていたものの、調理と接客を担っていたのは両親。そば打ちやつゆ作りに携わったことはありませんでした。

「店に戻った後に再婚しました。当時は旦那が蕎麦打ちと茹で釜の番をし、そばつゆ作りは父と私が担当していました」

再婚した恵子さん夫婦が、広治さんと厨房を守っていたある日。市の都市計画によって店の前の道路が拡張することに。当時、広治さんは71歳。高齢もあってこのタイミングで暖簾を下ろし、店を貸そうと心に決めたこともありましたが、存続を決めたのはやはり恵子さん。

「80年以上受け継がれてきた暖簾です。「私たちがきのえねを継ぐ!」という意志を伝えました」

娘の気持ちを知った広治さんも一念発起。平成16年に新築開店し今日に至ります。

「このことについて母はあまり口を出さなかったのですが、唯一『何がなんでも駅に近いほうがいい!』と言って結婚し支店を持つ時に、資金的に大変であったにも関わらず今の場所を選んだことは、丑松に次いで先見の明があったのかもしれません」

その後、恵子さんは再び離婚。3人で回していた厨房が再び人手不足になる中、弘恵さんも決心をしました。

「『おねえちゃん、私にもできるよ』って言ってくれたんです」

元々、『働かざる者食うべからず』という広治さんの言付けを守り、働くことを厭わなかった弘恵さん。「父からそば作りやつゆづくりを習って」真面目にコツコツと蕎麦と向き合う日々を経て、今や厨房は彼女が守る城です。

ところで、晩年の広治さんが取り組んだのは、高崎に二つあった麺類組合を合併させる一大事業。「これからの時代は、一つの組合でがんばっていかないと!」そんな信念で高崎麺類業組合が誕生。高崎を愛し、そば・うどんと共に生きた長年の功績に対して、叙勲が授与された広治さん。生涯最後の仕事を終えた今、空から家族を見守っています。


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