群馬県高崎市「きのえね」

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■先見の明と商才が生み出した、きのえねの発展

きのえね-04

生蕎麦と書かれた暖簾の『生』の字の下に立つのが丑松さん。自転車の前に立つのが末一郎さん。

群馬県・旧榛名町で生まれた初代・島方丑松。

薬問屋に丁稚奉公をしていた一人の男は、中心街から少し離れた嘉多町に「阿ら玉」の屋号を掲げた飲食店を創業。当時珍しい洋食と蕎麦を出す店として評判を呼び、町に欠かせない存在となりました。

「屋号の由来は記録にないので私の推測なのですが、『璞(あらたま)』という言葉から取ったのかもしれません。掘りだしたままの姿で、磨いてない玉。多くのお客様にこの店を磨いて欲しい。そんな気持ちを込めたものなのではと」

大正初期に撮影された貴重な一枚。そこには大勢の使用人に加えてエビスビール、剣菱、ヒゲタ醤油の商品で賑わう初荷の模様が残ります。

「今になって思うと丑松には先見の明があったと思います。これだけの女中さんや使用人がいたのですから」

きのえね-05

連雀町の交差点の右手に建つのがきのえね、左手に建つお茶の金子園は現在も同じ場所で営みを続けています。

その後、店は中山道沿いの一等地・連雀町(れんじゃくちょう)に移転。これを機に屋号も改まりましたが、多くのお客さんに磨かれ愛されてきた味と共に、高崎に駐屯していた陸軍歩兵第15連隊のお膝元に場所を変えても、賑わいが絶えることはありませんでした。

「看板にも『肉』の文字が見えると思いますが、この当時はすき焼きも手掛けていて、建物の二階には芸者さんも入っていたんです」

瞬く間に商売が軌道に乗ったきのえねですが、実は丑松には後継者となる子供がいなかったのです。そこで指名したのは自らの末弟・末一郎。なんと養子縁組をして店を継がせたのです。ところが昭和11年に他界。未来を託す存在が突然不在となってしまったこの状況を救ったのは、末一郎の長女・美代さんの婿・定吉でした。

「定吉は商才に優れていました。当時珍しかったソフトクリームの機械を導入し、街頭テレビで力道山の試合を流したり。他にも高崎競馬場に麺食堂を出店したり、馬主、アパート経営と手広く商売を手掛けていました」

定吉によって発展したきのえねですが、実はある秘密が。

「実は定吉の兄と美代が結婚する予定だったのですが戦死してしまい、弟が婿に入ったのです」


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