群馬県高崎市「きのえね」

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群馬県の商業中心地・高崎市に店を構える蕎麦屋「きのえね」。

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屋号の下に書かれた赤い『甲子』の文字は、十干十二支の組み合わせのうち、一番最初に来ることで縁起がいいとされる年。これを店先に掲げたのは1924年のことでした。

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左から弘恵さん、とし江さん、恵子さん。お三方の笑顔には優しさが満ち溢れています。

現在、このお店を切り盛りするのは三代目の島方とし江さんと、四代目の岡田恵子さんと島方弘恵さん姉妹。

インタビュー中、恵子さんのハキハキとした声に聞き惚れていると、なんと恵子さんは元群馬テレビのアナウンサーだったことが判明!

先代が見守りつつ美しき女性たちが暖簾を守るこのお店。その物語は大正初期に遡ります。

■先見の明と商才が生み出した、きのえねの発展

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生蕎麦と書かれた暖簾の『生』の字の下に立つのが丑松さん。自転車の前に立つのが末一郎さん。

群馬県・旧榛名町で生まれた初代・島方丑松。

薬問屋に丁稚奉公をしていた一人の男は、中心街から少し離れた嘉多町に「阿ら玉」の屋号を掲げた飲食店を創業。当時珍しい洋食と蕎麦を出す店として評判を呼び、町に欠かせない存在となりました。

「屋号の由来は記録にないので私の推測なのですが、『璞(あらたま)』という言葉から取ったのかもしれません。掘りだしたままの姿で、磨いてない玉。多くのお客様にこの店を磨いて欲しい。そんな気持ちを込めたものなのではと」

大正初期に撮影された貴重な一枚。そこには大勢の使用人に加えてエビスビール、剣菱、ヒゲタ醤油の商品で賑わう初荷の模様が残ります。

「今になって思うと丑松には先見の明があったと思います。これだけの女中さんや使用人がいたのですから」

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連雀町の交差点の右手に建つのがきのえね、左手に建つお茶の金子園は現在も同じ場所で営みを続けています。

その後、店は中山道沿いの一等地・連雀町(れんじゃくちょう)に移転。これを機に屋号も改まりましたが、多くのお客さんに磨かれ愛されてきた味と共に、高崎に駐屯していた陸軍歩兵第15連隊のお膝元に場所を変えても、賑わいが絶えることはありませんでした。

「看板にも『肉』の文字が見えると思いますが、この当時はすき焼きも手掛けていて、建物の二階には芸者さんも入っていたんです」

瞬く間に商売が軌道に乗ったきのえねですが、実は丑松には後継者となる子供がいなかったのです。そこで指名したのは自らの末弟・末一郎。なんと養子縁組をして店を継がせたのです。ところが昭和11年に他界。未来を託す存在が突然不在となってしまったこの状況を救ったのは、末一郎の長女・美代さんの婿・定吉でした。

「定吉は商才に優れていました。当時珍しかったソフトクリームの機械を導入し、街頭テレビで力道山の試合を流したり。他にも高崎競馬場に麺食堂を出店したり、馬主、アパート経営と手広く商売を手掛けていました」

定吉によって発展したきのえねですが、実はある秘密が。

「実は定吉の兄と美代が結婚する予定だったのですが戦死してしまい、弟が婿に入ったのです」

■アメリカ映画が紡いだ暖簾の歴史

「末一郎が他界したのは、私の母のとし江が2歳の頃でした。女中さんと結婚した末一郎との間に、母の姉である美代さんが生まれ、後妻のみつの子供として生まれたのが、とし江です」

戦後の復興期、人気を博した蕎麦屋の箱入り娘として育ったとし江さん。特に好きだったのが映画鑑賞でした。

「子供の頃はフルーツポンチを食べたり映画を見たり。映画に出てきた洋服を見て素敵だなぁと思ったら、それに近いものを縫ってもらって、近所の写真館で撮影もしてもらいました。着物も持って日本舞踊も習っていたんです」

中でも「ビビアン・リーやエリザベス・テーラーが好きでした」とアメリカ映画に夢中だったとし江さん。当時、きのえねの隣にあった『銀星座』という映画館に頻繁に通っていました。そこで出会ったのが映写技師として勤めていた広治さん。

「広治は農家の5人兄弟の末っ子でしたが、『農業をやりたくない』ということで銀星座に勤めたんです。そこで広治に『自分の店が持てる』ということも含めて、婿にしようと企んだんです(笑)」

こうして昭和32年、蕎麦屋の婿になった広治さん。店での修行を経て本店から歩いて数分の距離にある旭町に支店を構えました。

「当時、旭町のある駅周辺には現在のようなデパートや大型商業施設がなく、店に食べに来るお客さんも少なかったので、近隣の郵便局や食糧事務所など官公庁施設への出前が主流でした」

何段にも積んだせいろを持って消防署や郵便局に行く機会が増えるに連れて、実直に作る蕎麦・うどんの味が少しずつ町に認知されつつあった一方で、連雀町の本店は定吉の後を継いだ息子さんの代で閉店。こうした事情もあって広治さん夫妻が三代目を名乗っています。

「特に大きかったのが高島屋の進出、お店に来るお客さんの層も一変しました」

店の近所に大型店が続々と建ち始めた昭和50年代、平日は大型店に勤めるサラリーマン、土日は買い物帰りの家族客が増加。出前の役割は終え、昭和時代のエピソードとして語られる存在になりました。

■上州女の強さ、ここにあり!

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「昔は男性のお客様が中心でしたが、今のお店になってからは女性のお客様が多いですね」

ランチタイムのピークを過ぎた時間帯、今も近所のサラリーマンや女性客は暖簾をくぐり、三代に渡って培われてきた味を注文します。

現在、四代目として暖簾を守る長女の恵子さん。群馬テレビのアナウンサーを経て地元で江戸時代から続く料亭に嫁ぎ若女将へと転身。約10年間、若女将と母との二つの顔を持つ日々を過ごしていましたが離婚。子供と共に実家へ戻り店を手伝うことに。

一方、妹の弘恵さんは、高校卒業後お店を手伝っていたものの、調理と接客を担っていたのは両親。そば打ちやつゆ作りに携わったことはありませんでした。

「店に戻った後に再婚しました。当時は旦那が蕎麦打ちと茹で釜の番をし、そばつゆ作りは父と私が担当していました」

再婚した恵子さん夫婦が、広治さんと厨房を守っていたある日。市の都市計画によって店の前の道路が拡張することに。当時、広治さんは71歳。高齢もあってこのタイミングで暖簾を下ろし、店を貸そうと心に決めたこともありましたが、存続を決めたのはやはり恵子さん。

「80年以上受け継がれてきた暖簾です。「私たちがきのえねを継ぐ!」という意志を伝えました」

娘の気持ちを知った広治さんも一念発起。平成16年に新築開店し今日に至ります。

「このことについて母はあまり口を出さなかったのですが、唯一『何がなんでも駅に近いほうがいい!』と言って結婚し支店を持つ時に、資金的に大変であったにも関わらず今の場所を選んだことは、丑松に次いで先見の明があったのかもしれません」

その後、恵子さんは再び離婚。3人で回していた厨房が再び人手不足になる中、弘恵さんも決心をしました。

「『おねえちゃん、私にもできるよ』って言ってくれたんです」

元々、『働かざる者食うべからず』という広治さんの言付けを守り、働くことを厭わなかった弘恵さん。「父からそば作りやつゆづくりを習って」真面目にコツコツと蕎麦と向き合う日々を経て、今や厨房は彼女が守る城です。

ところで、晩年の広治さんが取り組んだのは、高崎に二つあった麺類組合を合併させる一大事業。「これからの時代は、一つの組合でがんばっていかないと!」そんな信念で高崎麺類業組合が誕生。高崎を愛し、そば・うどんと共に生きた長年の功績に対して、叙勲が授与された広治さん。生涯最後の仕事を終えた今、空から家族を見守っています。

■「町の蕎麦屋に徹すればいいんだ」

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「群馬の東毛地域ではうどんが主流ですが、西毛地域では蕎麦屋の看板を掲げながら、うどんも手掛けていたんです」

かつては洋食なども手掛けていたきのえねも、旭町に来てからはそば・うどん一本に。お品書きには蕎麦・うどん屋の王道の数々が記されている一方で、伝統を発展させるべく新しい料理へのチャレンジも忘れません。

「単に昔のものを守るだけでは商売が成り立たないので、新しいものも導入しています。伝統と革新ですね。もちろん、お店の軸を崩しすぎるといけないのですが、そういう時には『町の蕎麦屋に徹すればいいんだ』という父の言葉に立ち返ります」

テーブル席と座敷席が広がる店内には、きのえねらしい装飾が施された高崎名物のダルマの姿が。また、小さな子ども向けの絵本コーナーも大人気。幅広い世代に愛される秘訣。こうしたプラスアルファのおもてなしも大切にしている。

「美味しいものを提供するのは当たり前で、お客さんに合ったおもてなしができればいいなと。観光のお客様だったら高崎の良きものを紹介したり、魅力を多くの方に知っていただくお手伝いもできればと思っています」

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こうした気持ちで生まれた『高崎うめ~豚うどん』は、きのえねを代表する料理の一つ。高崎市の地粉で作られるうどんを始め、豚肉も梅干しもメイドイン高崎。せっかく当地に足を運んだのですから、昔から受け継がれるそばと発展系のうどんの両方が食べたくなるもの。同じく高崎産の文字が目を惹く「舞茸天そば」と合わせて注文しました。

ちなみに、おもてなしの一環として、きのえねには裏メニューも満載。「大きな鉢のような器に大量にそばを盛った『千円盛り』や、冷やしたぬき蕎麦の大盛りと竹輪の天ぷらが二本乗ったミニ竹輪天丼をセットにした『松田スペシャル』」といったものなど。常連になればスペシャルメニューの屋号が手に入るのですから、足繁く通いたくなるものです。

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決して大柄ではない弘恵さんにとって、そば作りは日々の大仕事。心を込めて作ったそばが大釜で茹でられ、梅干しや舞茸が天ぷら鍋で衣を纏う。

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そんな姿を見ていると、調理と無縁だった時代があるなんて信じられません。

■高崎の魅力がギッシリつまった、至極のそばとうどん

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角がしっかりと立った蕎麦を持ち上げると、ピンとした背筋の良さに作り手の血筋を感じます。畑に来たかのようなほのかな香りと共に啜れば、少し甘めのそばつゆとの絡みも申し分なし。この心地よさがたまりません。

もう一つの主役、舞茸天のしっかりしたボリュームと弾力も食べごたえ抜群。榛名の梅を使った塩を振って食べれば、舞茸の香りが更に口の中に広がります。

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一方のうどんは、洗練されたスタイルで登場。榛名の名人が育てた梅干しは、今どきの蜂蜜系でなければ塩が強すぎることもなく、果肉の爽やかな香りと衣の香ばしさの相性に驚かされます。

滑らかな口当たりのうどんも、まるで口の中を泳ぐかのような感覚。肉の弾力や水菜のシャキシャキ感とゴマの香りがひとつになったハーモニーは抜群です。更にもうひと味、ラー油を加えて新感覚の味も楽しめます。

「どちらのつゆも出汁は鯖と鰹を中心にして、かえしと共に製法は変えていません。ただ、温かいかけつゆで出す時は少しまろやかな口当たりにしていたのですが、父は濃い味が好きだったので『そんなに割るな!』とぶつかったこともあります(笑)」

■先人への思いを込めた一冊のパンフレット

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「お店の暖簾を継いでから、丑松さんと話してみたかったなぁと思うようになったんです。当時、高島屋が今で言う100円ショップのような『十銭ストア』を高崎に出店したいという話がありました。地元衆は自分の売上に支障が出るとして反対が多数。でも、初代は違ったんです。『これからの時代は、そういったお店が来ることが町にも私達のためにもなる』って。私は初代が切り開いてきたものに共感し誇りを持っています」

時は経ち、高崎に高島屋が開店して40年。このエピソードが高崎の発展のきっかけになったのは言うまでもありません。

「こういった人がいたから今の高崎があると私は思うんです。今も丑松の墓参りはもちろん、奥さんのカツさんの『私が死んでも新潟に住む親類と付き合ってほしい」という遺言を守って、その縁が続いてるんです」

先人の足跡を大切にする恵子さんが見せてくれたのが一冊のパンフレット。

「これは丑松さんへの感謝を込めて作ったもので、私の中にある食堂に対する思いの一つの区切りなんです」

見開きに使われているのは初荷の写真。丑松と末一郎が共に写る一枚が店の歴史を語ります。

「100年を目処として私達で頑張ろうと決めているんです。ただ、その後はまだ決めていないですね」と語る恵子さん。ちなみに息子さんはなんと「高島屋で働いている」とのこと。

「今もお客さんにたくさん来ていただき、色々な会話ができること。それが楽しいんです」と、笑顔で話すとし江さん。

一つ屋根の下で美味しさを提供する親子の絆は、これからも変わりません。


創業年:大正13年(取材により確認)

住所:〒370-0052群馬県高崎市旭町37

電話番号:027-322-5806

営業時間:11:30~15:00(平日)/11:30〜16:00(土・日・祝)

定休日:水曜日・木曜日

主なメニュー:高崎産舞茸天そば(900円)/高崎うめ〜豚うどん(850円)/カレーせいろそば・うどん(900円)/田舎せいろそば・うどん(850円)

Facebook:https://www.facebook.com/pages/そば処きのえね/126890314027039

※店舗データは2017年8月8日時点のもの(定休日は2019年1月4日時点のもの)、料金には消費税が含まれています。

〒370-0052 群馬県高崎市旭町37


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