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■熊本の米農家を支えた『馬』と『鯖』

2016年4月14日、熊本県と大分県を中心に九州に大きな被害を及ぼした熊本地震。瓦が落ち屋根が崩れた家屋を覆う青いビニールシートが、幾度の揺れが残した爪痕を伝えています。

空港から熊本市の中心部に向かって車を走らせ、辿り着いた一軒の建物。江戸後期から変わらぬ場所に立つ、山本屋食堂の堂々たる姿です。

創業のきっかけは、道を挟んで向かいにあった米の集積所。初代の山本勘次郎は、荷車や馬車で米を納めた農家の胃袋を満たすため、今も変わらぬ食堂の看板料理である、肉丼と鯖煮定食の提供を始めました。

「今ではどちらも高価になってしまいましたが、当時は馬肉と鯖が一番安く手に入る食材でした」

戦後間もない頃まで一頭買いした馬を店先でさばき、スタミナの源を提供してきた山本屋食堂。その名は山を超えて知れ渡り、一膳飯屋として人気を博していきました。

「今の阿蘇市や菊池市の方面から米を納め、現金収入を得て山本屋で食事をする。これが贅沢でステータスだったようです。鍋よりも大量に炊けることもあって、当時はおこわを蒸すように蒸気で米を炊いていました。記録に残っている範囲では、一日で16俵分のごはんを炊いたこともあったそうです」

■生活の中心には、いつも食堂の営みが

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その後、暖簾の歴史は二代目の壽吉(じゅきち)さん、入婿の徳二さん、先代の信一さんを経て、現在は德光(のりみつ)さんが五代目として受け継いでいます。

「自分のきょうだいは姉二人だったこともあって、自分がお店を継ぐことにしました。昔から比較的生活環境には恵まれていたのですが、得に先代は羽振りがよかったですね」

『食堂を営む』ことが生活の中心にあった環境の中で、德光さんは小さな頃からの日々を過ごしてきました。

「親父の頃までは、住み込みで働くお手伝いさんや職人さんがいました。朝はもう親父が仕事していて、私の料理はお手伝いさんが準備してくれたんです。手が空いたタイミングでごはんを食べて、朝7時ごろに店を開けて夜10時過ぎまで暖簾を出していた頃もありました」

代を重ねるごとに外観も変化していった山本屋。昭和30年代には2階建てだった建物は、現在は4階建てに。

「明治時代の建物は西南の役で一度焼けてしまったのですが、焼け残った部材を再利用して建て直し、営業を続けました。現在の建物になる前は、その木造の建物の隣に増築したんです。太平洋戦争の頃は、出征前にここで出陣式的な祝いをして戦場に赴いていたそうです。幸い、熊本大空襲の被害も少なく建物は奇跡的に残りました。18年ほど前に今の店舗に建て替えるとき、自宅と宴会道具を置く倉庫を確保するため4階建てにしました」

■王道から生まれた『まかない』という革新

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ズラリと献立が並ぶ大きな板。もちろん主役の肉丼と鯖煮を食べない理由はありませんが、『肉そば』の文字が気になります。

「終戦後、統制品となった米を補うために、親戚が営んでいた蕎麦屋からそば粉を買って、手回しの製麺機でそばを作って馬肉を乗せた肉そばを提供していました」

そして、テーブルに置かれたメニューの中で目に止まったのが『雪見丼』の文字。

「肉丼の上にとろろと卵黄を乗せたもので、元々はまかないで作っていたんです」

まかないからデビューした料理にハズレ無し。そこで、雪見丼、肉そば、そして単品で鯖煮を注文することに。そこに通りかかったのが、他のお客さんが注文した陶器に入った味噌汁。

「うちの丼ものには吸い物をつけているのですが、味噌汁に変えることもできますよ」の一言に、心の中で『よしっ!』と叫んだものです。

ツヤツヤの白ごはんが盛られた丼に、馬肉、とろろ、そして卵黄が盛られていく厨房。その傍らでは、德光さんの奥様が宴会料理の準備を進めていました。

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「地震で延期になっていた色々な集まりが、今の時期に集中しているんです」

厨房に貼られた予約の付箋の数が、少しずつですが地震が発生する前の日常を取り戻しつつあることを教えてくれます。

■安価な素材をごちそうに昇華させてきた、優しい甘さと丁寧な仕事

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まずは肉そばから。すすればフツフツとしたそばの舌触り、その先に感じるほのかな甘さ。煮汁をしっかり吸った馬肉の風味が舌に触れると、身体の中にどんどん馬力が宿る感覚になります。

「馬肉と聞けば、硬そうなイメージがあるかもしれませんが、ウチは二度炊き三度炊きするので柔らかいんです。味付けは醤油と砂糖だけで、醤油が塩辛くないので自然と料理全体が甘口になっていくんです」

魚介の出汁が溶けこむかけつゆに、少しずつ煮汁が混ざり合って味の深みが増していきます。

「かけつゆにも塩は一切使わず、出汁はかつお節、サバ節、昆布で取ってます」

そばをすするほど、おつゆを飲むほどに、戦後の復興に向けた逞しさを身体に取り込める。そんな熱々の一杯です。

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お次は、まばゆく輝く雪見丼。

「上の具をしっかり混ぜあわせて食べてみてください」の声を合図に、粘り強いとろろを混ぜあわせると、煮汁と卵黄と共に白いご飯が少しずつ馬肉の煮汁色に染まっていく。その瞬間はさしずめ春の訪れのようです。

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とろろと卵黄でまろやかになった甘めの煮汁がコーティングしたごはんの美味しさは、まかないと呼ぶにはあまりにも完成度が高い一品。色々な口当たりと共に、ズズズっと音を立てながら一気呵成に食べるのが作法です。

お楽しみの味噌汁もコク深く、ここにも塩辛さではなく麦味噌のやさしい甘さが溶け込んでいます。具に入った豆腐と油揚げとの相性も抜群。ネギの爽快感が甘さを引き立てます。

「味噌汁にはスリこぎで擦った麦味噌を使ってます。出汁は鰹節とサバ節で一日分を取っていますが、時には足りなくなることもあるんです」

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トリを飾るのはお皿に盛られた鯖煮。

煮汁に染まった銀色の皮に箸を立てれば、誰もが驚くこと間違いなし。隅々まで脂が入った身は想像以上にやわらかく、口内の温度で溶け出す脂と甘めの煮汁が絡みあった味が、一瞬でごはんを恋しくさせます。

「鯖の味付けも馬肉と同じく、砂糖と醤油を使っています。脇にもやしを添えているのは昔からで、当時から安価だったからかもしれません。昔から鯖、ごはん、味噌汁が人気でした」

煮汁を絡めたもやしも箸を軽快に動かす潤滑油。 時代を超えて愛される味に納得です。

■人が集う場所だからこそ、日々の営みで町を支える

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「外観は無傷ですが4階は棚が倒壊してしまいました。あの日、厨房では600キロはある業務用冷蔵庫が目の前を動いてました。洗浄機や排水パイプも壊れてしまい、水道とガスも止まってしまいました。幸い、電気は無事で水道はすぐに復旧してしまったものの、ガスの復旧には1週間ぐらいかかりました」

長い山本屋の歴史の中で、今回の地震が一番の危機だったのかもしれません。ですが、そんな災害に見舞われたにもかかわらず「手元にあった食材はすぐに調理して被災者の方に配りました」という気持ち。何よりも人々の生活と町を大切にしてきました。

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『煮賣屋』の文字が記された営業許可証が、今日も見守る山本屋。その未来を担うのは、一人息子の徳系(のりつぐ)さん。上京し割烹で修行を積んで戻ってきました。

「一人息子ですが『継がなくてもいいよ』と言ったんです。本人が嫌なのに継がせるとお互い不幸になるので」

では、もし『継がない』という話があった場合、どうしていたと思いますか?と訪ねてみると、「なんとなくやっていて、なんとなく去るぐらいがいい。私は肩肘はらずに毎日やってきたことをやるだけです」

電話先の宴会予約に対する「またどうぞよろしくおねがします」の一言。そこには人柄ならぬ店柄の良さが溢れ出しています。

「最大で200名に対応できる」という大規模な予約に対しても、味への責任とくつろぎを届ける老舗の矜持。熊本の農家を支え、地震で傷ついた人々を癒やす山本屋食堂。

これからもこの場所で町を支える存在であり続けてほしいと願うばかりです。


【店舗情報】
創業年:江戸後期(取材により確認)
住所:〒860-0848 熊本市中央区南坪井町7-10
電話番号:096-352-2900
営業時間:11:00~21:00(オーダーストップ20:30)
定休日:不定休
主なメニュー:肉丼(750円)/肉そば(650円)/鯖煮付け(420円)/雪見丼(1,030円)/味噌汁(240円)
ウェブサイト:http://www.e-enkai.net/
※店舗データは2020年6月7日時点のもの、料金はすべて税込み。

〒860-0848 熊本市中央区南坪井町7-10


プロフィール

百年食堂応援団/坂本貴秀
百年食堂応援団/坂本貴秀ローカルフードデザイナー
合同会社ソトヅケ代表社員/local-fooddesign代表。内閣府を退職後、ブランディング・マーケティング支援、商品開発・リニューアル、コンテンツ企画・撮影・執筆・編集等各種制作を手掛けている。