青森県八戸市「キクヤ食堂」

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■ベーカリーから食堂へ。形と場所を変えて街に寄り添ってきた初代の想い

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食堂のルーツは八戸で生まれ育った初代の加藤信吉さんが、1930年に創業したキクヤベーカリーに遡る。

「屋号は八戸市の花である菊からつけたものなんです。函館の洋食店で修行していた信吉は、本家が八戸の中心街で醤油の醸造を手がけたり、本家筋もその周りで商売をしていた環境もあって、八戸に戻ってから中心街のデパートの一角にあった広場に店舗兼住宅を借りて始めました」

洋食店で培ったパン作りの技術を活かして始めたベーカリー。中心街でも人気だったが、太平洋戦争がその環境を大きく変化させた。

「戦時中、延焼防止として建物の間隔を設けるために店が取り壊しになってしまったんです。戦後は日本人相手の飲食店だと小麦粉などの食材が手に入らなかったこともあって、高館に進駐していた米軍の将校クラブでコックをしていました」 自分の城を手放さざるを得なくなった信吉さん。そんな姿を支えたのは奥さんのカヨさんと娘の雅子さんだった。

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「八戸で二番目に導入した」というソフトクリーム機を横に

「戦時中にかかった病気がきっかけで寝たきりになってしまったんです。そこで、信吉の兄が薬店を営んでいたこの町に生活拠点を移して、おばあちゃんと母が生活のために食堂として再開しました。比較的簡単に作れるカツ丼やラーメンをはじめ、洋食もおばあちゃんが初代が作る姿を見ていたので提供できたんです」

その後、信吉さんは昭和33年に他界。修行先で培った技は厨房の中で受け継がれ、今も食堂の礎として生き続けている。

■産業賑わう小中野の活力となった食堂の味

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厨房で働くカヨさん。奥に大量に積み重なった器が当時の賑わいを伝える

「店を再開した当時、このあたりは化学工場や水産加工場が並ぶ工業地帯で、ウチもそこで働く人たち向けの食堂として人気でした」

店の最寄りとなるJR小中野駅から伸びる道は、工業地帯で操業していた企業名を取って『日東通り』と呼ばれ、「『工場街』なんていう名前の食堂もあった」ほどに、戦後の復興に向けて働く労働者とそれを支えるお店によって賑わいが絶えなかった。

そんな日本全体が活況を迎えるころ、戦前、米問屋を営んでいた家から婿入りしたのが二代目の勝雄さん。

「親父は工業高校に行っていたんですが、周りが『ウチの母と結婚しなさい』という流れを作って婿に入ったんです。親父は厨房仕事だけではなく配達もしていましたが、当時は高度成長期だったのでなんでもあり。お客さんからのリクエストで増えたメニューに対応するため厨房で働く人を雇ったり、高校生の子を配達のアルバイトに使ったり。とにかく忙しい時代だったそうです」

出前に使う手段が「自転車、カブ、軽のワンボックス」へと時代を象徴する乗り物に変化していったが、少しずつ町の姿も変化していった。

「今では工場や造船所の敷地も商業施設になってしまったり。町を往来する人の数は少しずつ減ってしまいましたね。私達が中学生だったころは、子供が立ち入れない場所としてダンプカーとかが往来していたんですが」

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そんな町の食堂を三代目として継いだ信一さんは現在59歳。

「高校を出てから専門学校で栄養学を学んで、そのあとは甲府の病院に調理師として入りました。実は私も親戚から『跡継ぎになれ』という声があって今に至るんです」

一度に200人分の給食を作っていた信一さん。「浴槽のような大きな器で料理を作ったりもして、料理を大量に作るオペレーションには慣れてるんです」という腕前と共に、現在は雅子さんと妹さんの3人で食堂を営んでいる。