雰囲気や料理だけじゃない
「人」が惹きつける店
「たまたま店の前を通りがかった時に、店頭にかかった味のある暖簾とカウンターに並んだおばんざいが見えて。いい雰囲気のお店だなと思って、ふらっと立ち寄ってみたんですよ」。初来店時の様子をこう振り返るアベさん。まさにクリエイターのインスピレーションが、アベさんを店に引き寄せたともいえる出会いだ。
ただ、通い続けるようになった理由は、初見で感じた雰囲気や料理への印象だけではなく、人にあるという。当時、店主として店を運営していたのは一代目店主の堀内孝雄さん。孝雄さんは、海外でも修行を積んだ経験のある料理一筋の生粋の料理人。話すのが好きで、時には自身も客と一緒に酒を楽しみ、語り合うこともあったという。
「親父さんの話してくれる昔話の数々が本当に面白くて。時には盛っているんじゃないかと思うような話もあったんですけど(笑)。まるで映画を観ているような感覚で話を聞いていました。僕が行きたくなる場所は、必ず『人』の存在がある。だから、親父さんの話を聞いたり、顔を見に行ったりするのが来店の目的でもありましたね」
アベさんが店に通うようになり、いつの頃からか店に顔を出すようになったのが孝雄さんの息子であり、現在の店主・堀内範臣さんだ。もともと知人を介してアベさんとはつながりがあったという範臣さんは、音楽業界で働いていたミュージシャン。実は、飲食業に携わるのはこの壱番隊が初めて。
「10年くらい前に音楽の仕事をし続けるのが難しくなって、ずっと疎遠になっていた親父のことを思い出したんです。でも、店に来たものの、子どもの時から別々に暮らしていたので、親子というよりは親戚の叔父さん感覚で接していましたね。飲食店で働くのは初めてでしたが、親父も教えるのが苦手なタイプだったし、長年店に勤めていたおばちゃんに教わったりしながら、仕事はほとんど見て覚えました」
今は亡き初代が築いた
唯一無二の店の魅力
時には喧嘩になることもあったが、徐々に店を任され、範臣さん一人で切り盛りする頻度も増えた。そして今年4月に孝雄さんが亡くなってからは、店主として店を運営するように。世代交代はしたが、店の常連には父親の代から通い続けている人もいる。
範臣さんいわく、「『店が変わった』とはあまり言われないですね」という店は、カウンターと外席のみの昭和の空気が残る店構え。そして店に入ってすぐ目にとまるのは、アベさんも惹かれたという、カウンターに置かれた数種類のおそうざい。筍と厚揚げの煮物や、ひじきの煮物、らっきょうの酢漬けなど、日本の食卓で見られる家庭的なメニューが並ぶ。
「うちで出しているメニューはすべて自家製で、内容はその日に仕入れた食材によって変えたりしています。周りには飲食店の多いエリアですが、家庭的な定食を食べられる店はまだ少ないと思います。よその店では食べられない料理を出すというのが、こだわりといえばこだわり。他と同じことをやっていても勝負できませんから」
範臣さんがそう自負する店のメニューの中でも、特におすすめなのは魚料理。豊洲市場で仕入れた魚を、丸焼きや切り身など多様な調理法で提供している。西京焼きや鮪テールの照焼きも人気だが、アベさんもよく頼むというメニューは小鉢付きの焼き魚定食。「その日に仕入れている魚を確認して、焼き物なんかを頼むことが多いです。炉端で焼いてくれるんですけど、ニシンの塩焼きなんかとてもおいしいんですよ」と魚料理のクオリティに太鼓判を押す。
アベさんお気に入りの「焼き魚定食」
今年4月に初代店主の孝雄さんが亡くなり、現在は範臣さんが一人で店を運営している。孝雄さんは、高級料亭などで腕を磨いてきた料理人。牛一頭を余すところなく調理することができるような、何でも作れる人だったという。また、客が使う箸にもクオリティを求めるほど料理に対してはストイックな姿勢を持っていた。そんな孝雄さんが考案した店の料理は、たとえ他店で同じメニューがあったとしても、培った技術により考案された店の料理は一味違うのだという範臣さんは言う。
父と息子、そして客
すべてをつなぐ店
店では、範臣さんとお互いの家族のことなどの話をするというアベさん
料理を含め、初代のこだわりを引き継ぐ一方で、範臣さんはメニューを絞り込むなど時代に合わせた小さなアップデートは行っているという。初代の店の良さは引き継いだとはいえ、自分が店主となったことで何か変わったかと問うと、範臣さんからは「より家庭的になった」との答えが。
「親父のように職人ではないので、自分が継いだことでより家っぽさを感じる店になっているようにな気がします。蒲田には地方から出てきた人や単身赴任の人も多い。一人暮らしで家庭的なご飯を食べられないという人にぜひ来てほしいですね」
範臣さんがそう言う店の変化をおのずと実感しているのが、店の世代交代を知るアベさんだ。
「やっぱり定食屋、老舗の良さがあるお店です。いつ来てもおいしいご飯が待っている場所。実家のような場所なんだけど、僕くらいの歳になると実家って自分の部屋ももうないし、余所行き感があってほっとできないんですよね(笑)。だから、壱番隊は実家に近い、安心できる親戚の家のような場所という方がしっくりくるかもしれません」
安心できる場所に加え、アベさんが気に入っているのは、自分と店との距離感。会話は交わすけれど、決して客に入り込みすぎない程よい距離感が心地よいのだという。それに対して範臣さんは「喋るのが苦手で。喋らなくていいからと音楽をやっていたぐらいですから(笑)。飲食業は向いてないなって思いますよ」と飾らない態度。お喋り好きの初代とは正反対ともいえるスタイルの範臣さんだが、初代とはまた別の居心地の良さを客に提供しているようだ。
距離感と聞いて気になるのが、範臣さんと孝雄さんの親子の距離感。長い間疎遠になっていた分、親子とはいえ互いに距離があった二人。孝雄さんは亡くなる前までたまに店に顔を出し、買い出しの手伝いや範臣さんが不在時の留守番などをしていたという。孝雄さんの死に対し、思いのほか別れの時が早く訪れて驚いたという範臣さんだが、店の他にも孝雄さんから受け継いでいたものがあった。それは、孝雄さんがつけてくれた、範臣さんの3人の子どもたちの名前。「何かいい名前があるか聞いたら、思いのほかいい名前を出してきたんですよね。それだけでも、親父はいい仕事をしたんじゃないかなって思います」。
店を見守り続けているであろう、今は亡き初代店主の堀内孝雄さん
父と息子をつないだ「壱番隊」。そして、客としてつながったアベさんは、「いまのままで変わらず、長く続いてください」と店にエールを送る。
住所:東京都大田区西蒲田7丁目63-4
電話:03-3734-5060
営業時間:12:00~22:00ぐらい(ご飯無くなり次第終了)
定休日:日曜、時々土曜
音楽業界で勤めた後、父親の堀内孝雄さんの後を継ぎ、「壱番隊」の二代目店主に。子育てをしながら、現在は一人で店を切り盛りしている。