埼玉県さいたま市「中華の永楽」

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■上野で研鑽を積んだ洋食堂が、岩槻名物の中華店になるまで

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埼玉県さいたま市岩槻区。雛人形や五月人形の工房が軒を連ねる人形の町に、永楽食堂がやってきたのは太平洋戦争の終戦後。

鹿児島県霧島市に生まれた篠永秀男さんは、中学卒業と同時に料理人を志し上京。洋食の名店・上野精養軒の門を叩き、研鑽を積む日々を過ごした。

昭和8年、洋食店が軒を連ねる浅草に近い業平橋で、修行時代に出会った照子さんと共に永楽食堂を開店。洋食を中心に丼ものやラーメンも手がけていたことで、幅広い層のお客さんが集まる人気店に。

「元々ウチは洋食堂。おじいちゃんの頃は店でデミグラスソースを仕込み、イカフライだけじゃなくカレーやコロッケ、ハンバーグといった洋食を作ってました。でも、その一方でカツ丼やラーメンとかも作ってたんですよ」

中華の永楽-06

こう語るのは三代目・育弘さん。「これと決めたら崩さない人間だった」という初代の思いを受け継ぐ46歳の雰囲気は、職人気質というより親しみやすい町のあんちゃんといったもの。「父親から聞いた」という記憶を紡ぎながら食堂の歩みを話してくれた。

外食を楽しむお客さんで賑わう日常を、東京大空襲が襲ったのは昭和20年のこと。

「空襲で店から焼け出された時、おばあちゃんのお腹には親父がいたんです。そんな身体だったので急いで避難することができなかったけど、奇跡的に難を逃れたそうです」

店舗と住居を兼ねていた建物は焼失。商売と生活の拠点を失った秀男さんが親戚を頼ってたどり着いたのは岩槻の地。6坪の小さなお店で永楽食堂は新たな一歩を踏み出した。

ところが、店の火元に使っていたコークスが原因で秀男さんは一酸化中毒に。これがきっかけで高校を中退し、二代目としてのれんを守る決断をしたのが長男だった一郎さん。

二人の弟と共に食堂を切り盛りし、店の人気が高まるに連れて現在の場所に移転。隣接する土地を少しづつ買い足していった結果、「二階の宴会場を含めると220席ほど」という現在の規模になった店は、屋号を現在の『中華の永楽』に改めた。

「駅の近くに店があったときに親父が継いで、今の場所に移ってきたのが22〜23歳の時。中華料理をメインにしたのは時代の流れ。割合が増えていくうちにお店も大きくなって、厨房に中華の料理人が増えていきました」


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